12星座全体の運勢

「主観の結晶化」 

昼と夜の長さが等しくなる「秋分」を2日後にひかえた9月21日には、うお座28度(数えで29度)で満月が形成されていきます。

そんな今回の満月のテーマは、「画竜点睛」。すなわち、物事を完成させるための最後の仕上げの意。前回の記事の中では、9月7日のおとめ座新月から21日のうお座満月までの期間は「かつて否定した自分自身(の実感や衝動)との和解」ということがテーマになると書きましたが、それは以前なら単なる主観でしかないとして切り捨てていた個人的な思いや直感が改めて検証され、そこには顧みるべき何らかの意味や価値があるのではないかといった“読み解き”が促されていきやすいという意味でした。

つまり、先の「仕上げ」とは、権威や影響力があるとは言えど誰か他の人の意見や考えや根拠をうのみにするのではなく、あくまでみずからの主観的な確信を熟慮のうえで結晶化していくことに他ならないのだということです。

例えば、藤原定家の「見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という有名な歌があります。浜辺であたりを見まわしてみても何もないという意味で、表向きには何にもない景観です。そもそも、花は春、紅葉は秋ですから、同時に観れる訳がない。ただ、「ない」とあえて否定することで、うっすらとその痕跡が重層的にイメージされ、その上に実際の「秋の夕暮れ」が見えてくると、もはやそれはただのさびしい風景ではなく、心的空間における仮想現実体験のような積極的なニュアンスをもつまでに至るのです。無駄を省いて、一つだけ残ったものとしての秋の夕暮れ。何でもないような一日をあらんかぎりの高度な手法をもって大切に締めくくるという意味で、実に今回のテーマに即した作品と言えるのではないでしょうか。

同様に、今期は他の人が何と言おうとも、自分にとってこれだけは大切な体験・体感なのだということを、手を尽くして結晶化してみるといいでしょう。
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魚座(うお座)

今期のうお座のキーワードは、「いたみても世界の外に佇(た)つわれと紅き逆睫毛(さかさまつげ)の曼殊沙華」(塚本邦雄)。

魚座のイラスト
秋彼岸も近くなると、日本中のいたるところで、曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の花が突然すっくと立ちあがって顔を覗かせるようになり、ただそれも十月の半ばころには皆殺しの後さながらの真っ赤な血の海もすべて掃き消されていきます。 
 
もともと「曼殊沙華」とは「天上に咲く花」を意味する仏教語であり、想像上の動植物が世俗に生きた実例の一つなのですが、この花には東洋独特の日本在来種でありながら、古歌に詠まれた形跡はほとんどなく、近代に入ってようやく詠まれた始めたという意外な、いや言われてみればそうだろうというような歴史があるのだそう。 
 
こうした曼殊沙華について、たとえば前衛短歌を代表する歌人・塚本邦雄は『百花遊歴』の中で、次のような印象的な一文を遺しています。 
 
不意打ちめいた真紅の痙攣、葉の欠如、しかも全く香りを持たぬこと、更に有毒であること等、この植物はもともと日本人に忌み嫌はれるやうにできてゐる。あの躊躇も含蓄もかなぐり捨てて居直つた美しさも亦反感を呼ぼう。私はそれが好きだ。同科のアマリリスの中途半端な濃艶さより、どれほど潔いことか。」 
 
しかり。目に映ったものを綺麗だと素朴に口にできることも時に瞠目(どうもく)に値するものですが、しかしその植生や歴史、詠まれた歌の数々を知り尽くした上でなお、「私はそれが好きだ」と書くことのできた塚本の潔さもまた、曼殊沙華に負けず劣らずと言ったところなのではないでしょうか。 
 
自分の星座で満月を迎えていく今期のうお座もまた、それくらいの率直さをもって、みずからの“感じたこと”を周囲に示していきたいところです。 


参考:塚本邦雄『百花遊歴』(文芸春秋)
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<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ