2022年3月6日から3月19日のSUGARの12星座占い
[目次]
  1. 【SUGARさんの12星座占い】<3/5~3/19>の12星座全体の運勢は?
  2. 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢
    1. 《牡羊座(おひつじ座)》
    2. 《牡牛座(おうし座)》
    3. 《双子座(ふたご座)》
    4. 《蟹座(かに座)》
    5. 《獅子座(しし座)》
    6. 《乙女座(おとめ座)》
    7. 《天秤座(てんびん座)》
    8. 《蠍座(さそり座)》
    9. 《射手座(いて座)》
    10. 《山羊座(やぎ座)》
    11. 《水瓶座(みずがめ座)》
    12. 《魚座(うお座)》

【SUGARさんの12星座占い】<3/5~3/19>の12星座全体の運勢は?

「二元論的枠組みからの脱却」 

天文学には春の始まりであり、占星術的に一年の始まりである特別な節目の「春分」をいよいよ直前に控えた3月18日に、おとめ座27度(数えで28度)で満月を迎えていきます。 

前回3月3日のうお座新月は、冥王星(パワーへの飽くなき欲求)と火星(アクション)が重なる日でもあり、現在の緊迫した世界情勢がどちらへ傾いていくのかを占う上でも非常に大切な節目でしたが、18日の満月はそんな冥王星を緩和させる形で配置されており、「二元論の否定」ということがテーマとなってきます。 

すなわち、善か悪か、光か闇か、神か悪魔かという二元性の世界にどっぷり没入して、「〇〇〇〇が悪い」「こっちが良くて、あっちはダメ」「制裁、消去」と単純に決めつけていくのではなく、そうした二者択一的/二元論的な枠組みそのものから脱却するべく、否定できない真実をえぐり出していくのです。 

もちろんそれは「言うは易く行うは難し」ではありますが、ちょうど春分をはさんだ七日間を春の「お彼岸」といい、中日である春分が煩悩に満ちたこの世界(此岸)を超えた極楽浄土(彼岸)に最も近づける日だとされてきたように、混迷にみちた現在のこの世において、見失ってはいけないポイントを自分なりに見出し、感じ入っていくには今回の満月前後がもってこいのタイミングなのだとも言えるでしょう。  

その際、春の陽気をぞんぶんに取り入れて、できるだけ世の中や自分自身に対して冷笑的にならないよう努めることが大切であるように思います。世間一般からすれば些細なこと、つまらないことでもいい。自分にとって、これだけは忘れないでおこうと思える何かを見つけ出していきたいところ。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「ごく普通の体験を豊かにしていく」。

牡羊座のイラスト
「酒と女は芸の肥やし」という言葉もあるように、一般に、創造的な仕事をするには、ユニークなライフスタイルや特別な儀式や方法論が必要不可欠であるというイメージがかなり広く定着しているように思います。それがもう古いか新しいかはともかく、ひとつ言えることは創造的な仕事というのは得てして重労働であり、決して行き当たりばったりだけでは終わらせることはできないということ。 
 
例えば、「ミニマル・ミュージック」を提唱する現代作曲家のひとりであるジョン・アダムズは、2010年に行われたインタビューの中で「毎日午前九時から午後四時か五時くらいまで仕事をする」が「僕の経験からいうと、本当に創造的な人々の仕事の習慣はきわめて平凡で、とくにおいもしろいところはない」と話しており、「基本的に、なんでも規則正しくやれば、創作上の壁にぶちあたったり、ひどいスランプに陥ったりすることはないと思っている」と断言してもいます。 
 
とはいえ、何かと誘惑や邪魔の多い毎日の生活において何かを「規則正しく」やり続けるということほど難しいことはないはず。そして難しいことをこなせるようになるためには(しかもごく平凡に見えるように)多大な訓練が必要ですが、多くの場合、私たちは病気や事故などに直面するまで、日常生活を送るのに特別な訓練が必要であるとは考えません。それでも、そうした事情について精神科医の中井久夫は次のように述べています。 
 
異常体験というものは実はかなり類型的なものであり、そうでない体験のほうがはるかに豊富であり、分化しており、多様である。」 
 
日常生活を規則正しくこなしていく訓練とは、まさにこうした多様な経験の実る土地に分け入っていくことに他ならないでしょう。そして、そこで少しずつ土地をならして耕し、種を撒いて収穫することで、アダムズのようにさまざまな創造性の現れを経験していくことができるのです。 
 
ただ、アダムズは規則正しいスケジュールを守る一方で、「必要以上に計画しないようにして」おり、ときには「あきれるほど無責任な状態にいる必要」もあるのだとも述べています。 
 
自分の星座から数えて「生活習慣」を意味する6番目のおとめ座で満月が起きていく今期のおひつじ座もまた、ごく普通の体験をこそ「規則正しく」耕し、根気強く、ときに気ままに発展させていくことを大切にしていきたいところです。 
 
 
参考:メイソン・カリー、金原瑞人/石原文子訳『天才たちの日課』(フィルムアート社)、中井久夫『世に棲む患者』(ちくま学芸文庫) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「理性をはたらかせる」。

牡牛座のイラスト
いつの時代も、大衆は惑うものであり、認識よりも救済を求めるもの。だからどうしたって面倒な手間のかかる事態の正確な把握よりも、何をどうすればいいのかという具体策を知りたがる。その結果、ネットやSNSには根拠が薄弱な誤情報や、でたらめなフェイクニュースがあふれかえり、それに流され翻弄される人が後をたたない。 
 
けれども、そういう人たちを安直だとなじっている者とて、そもそも「生きて死ぬ」とはどういうことなのか、どこに両者の境があるのか、ということをわかっていないという点では、根本的には変わらないのかも知れません。 
 
古来、人間は生死の不分明な境界に広がる空白地帯や、言葉を失うことしかできないような不条理に対し、想像力を働かせることで、宗教や哲学、文学をうみだし、近代以降は科学がそうした想像力を規定してきた訳ですが、科学技術のもたらす恐ろしい弊害を知った現代では、大衆はますますどこに救いをもとめていいか分からない袋小路に陥っているのだと言えます。 
 
ただ、哲学者の池田晶子はそうした大衆の歩むべき道について、2003年刊行の『あたりまえのことばかり』に収録された「生命操作の時代」というエッセイの中で、次のように述べています。 
 
科学か宗教か、という古典的な二者択一を越える第三の道は、理性の道である。何よりまずそれが必要だと私は思う。科学と宗教の、もしくは西洋と東洋の「融合」といった道を先に唱えるのは、同じくらいに安直である。とにかくまず自ら考えられているのでなければ、そこに何を持ってこようが同じことの繰り返しだからである。」 
 
池田は、別の個所で「知性」ではなく「理性」をはたらかせることの大切さを強調しています。知性ということなら、かつてのオウム真理教などは高学歴の理工系の信者が多かったことで知られていますし、理性の働きというのは、学歴や知識の多寡とは無関係であって、あくまで「永劫の不可解に直面した人類が、その絶句と引き換えに手に入れた」事象一般への洞察であり、「それへの態度のとり方」をいうのだと。 
 
そうして、これからの大衆に向け「信じるな、まず考えなさい」と結ぶのですが、それは他のどの星座よりも、自分の星座から数えて「生の実感」を意味する5番目のおとめ座で満月が起きていく今期のおうし座にとって大きな指針となっていくでしょう。 
 
 
参考:池田晶子『あたりまえのことばかり』(トランスビュー) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期の座のキーワードは、「悪は人間によって行われる」。

ふたご座のイラスト
大量虐殺やテロリズム、核戦争の準備など、世界的規模にわたる激烈な悪は、実際的な出来事の側面からだけでなく、哲学や心理学から側面からも取り扱わなければなりません。 
 
というのも、多くの日本人はどこかでロシアが核戦争を始める訳がないと思っている節があり、そうした激烈な悪をあえて危険をおかして無視する構造に陥っているか、そうでなければ悪に対する感度がかつてないほどに鈍ってしまっているからです。 
 
その点について、歴史学を専門としつつも、哲学博士でもあるJ・B・ラッセルは『悪魔の系譜』のなかで、次のように指摘しています。 
 
われわれ各自のなかに悪が存在するのは確かだが、個人の悪を膨大に加えたところで、地球という惑星の破壊はもちろん、アウシュヴィッツを解明することは誰にもできない。この規模の悪は質的にも量的にも異なっている。もはや個人の悪ではなく、おそらくは集合的無意識から生じる超個人的な悪である。」 
 
かつて古代ローマの教父アウグスティヌスは、悪とは「完全性の欠如」であると考えましたが、ラッセルがいうように最新のテクノロジーやデジタルと結びついた現代の悪はもはやそんな生やさしいものではなく、リアルに実在する内在的かつ自律的な存在なのです。 
 
悪魔そのもの、すなわち可能な範囲において宇宙を破滅させ、荒廃させることを意識的に選ぶ、闇の支配者の意志を反映させているのかもしれない。苦しみのために苦しみを与え、悪のために悪をなすことで、悪魔は紛れもなく宇宙的悪の人格化である。」 
 
最後の「宇宙的」というところで、宗教にアレルギーをもっている人は引っかかるかも知れませんが、ここで重要なのは「悪魔は紛れもなく悪の人格化である」という部分であり、これは別の言葉に言い換えれば「悪は人間によって行われる」ということに他なりません。 
 
自分の星座から「心理的基盤」を意味する4番目のおとめ座で満月が起きていく今期のふたご座もまた、みずからの内に巣食う無知や無関心がどんな風に「超個人的な悪」に繋がって、実際的な事態をひき起こしているか、想像してみるといいでしょう。 
 
 
参考:J・B・ラッセル、大瀧啓裕訳『悪魔の系譜』(青土社) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「我、書く、故に我在り」。

蟹座のイラスト
今回のロシアによるウクライナ侵攻をめぐって改めて実感したことのひとつに、私たちは無数の人によって「書き込み」「書き出された」コンテクストの共同世界を生きており、自分自身もまたせっせと書いているのだということがあります。 
 
実際、私たちは不安に駆られたり、思い悩んだり、危機に直面したりするほどに、ますます場所を選ばずに何かを書こうとしますが、なぜ、そうまでして私たちは書く、すなわちテクスト(文脈)を紡ごうとするのでしょうか。 
 
こうした問いについて、哲学者の井筒俊彦は、現代哲学の巨人であるデリダを参考に、「現実」という言葉を「テクスト」に、「存在する」ことを「テクストの織り出し」へと読み変えてみることで、今まで全然見えていなかった側面が露呈してくるのだと述べています。 
 
「書く」とは、デリダにとって、心のなかに生起している想念を文字で書き写すことではない。(…)そうではなくて、「書く」とは書き出すこと、何かを存在にまで引き出してくること、つまり、存在そのものを我々の目の前に引き出してきて見せるための術策なのだ、と。」 
 
「書く」と「テクスト」と「存在」が奇妙な形で結びつけ、テクストの織り出しを現実現出の術策とするこの解釈においては、「一切は「テクスト」であり、「テクスト」内の事態」であって、そうすることで「我々は我々自身を、流動的可変的な「テクスト」として織り出して」いるのだと井筒はいいます。 
 
これは、かつての百科全書のように、あらゆるものが整然と整理され、あるべきところにあるべきものがあって、すべてが全体の中心としての神のまわりで見事な秩序をなしているといった世界像が現代ではとうに失われ、私たちの生がもはや、体系的で自足的で、自己完結している「本」のようではありえないということの裏返しでもあります。 
 
現代において、悪を懲らしめる善を象徴する水戸黄門や大岡越前は、いくら待っていても登場してこないのであり、現実が「テクスト」であり、そこに自分が存在することを自覚しようとする限り、私たちは実際に起きた出来事に折り合いつけるべく、みずからの手でテクストを織り出し、たぐりよせ、「なぜ」と問い続けていく他ないのでしょう。 
 
自分の星座から数えて「情報の受発信」を意味する3番目のおとめ座で満月が起きていく今期のかに座もまた、困難に陥ったときほど手を動かし続けることを忘れないよう、心がけていきたいところです。 
 
 
参考:井筒俊彦『意味の深みへ』(岩波書店) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「「罪の経済」の克服」。

獅子座のイラスト
資本主義か社会主義か、という二者択一でこの先の未来のあるべき姿を考える人はもはやごく少数派で、イギリスの批評家マーク・フィッシャーが指摘していたように、今や資本主義こそが唯一の存続可能な政治・経済的制度であるばかりか、その代替物を想像することすら不可能だという意識が日本でもコロナ以上に蔓延しているように思います。 
 
しかし、こうした資本主義について、思想史家の関曠野は2016年に刊行された『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』のなかで「資本主義に普遍的世界史な必然性などありません」と断じた上で次のように述べています。 
 
近代日本が極東の国でありながら近代化していわゆる経済大国になったことが、資本主義は普遍的な現象という錯覚を生んでいるのかもしれません。しかし、この日本でさえペリーの黒船など欧米列強の軍事的脅威なしには西洋化することはなかった。現在の世界では、中国さえ一見資本主義化していますが、どうみてもその実態はハリボテなのです。」 
 
関はその論拠として、いくら資源やテクノロジーが潤沢にあってもそれだけでは資本主義は成立せず、その真の成立のためには「罪の経済」という精神が必要なのだといいます。 
 
すなわち、アダムとイブが原罪を犯して楽園を追放されたというキリスト教の原罪論が、のちに「人間の神に対する負債、罪滅ぼしとしての労働」という観念と結びついて、いわば魂の救済を金で買うという発想が近代のアングロサクソンにおいて資本主義と適合したエトスとなったのであり、関はこれこそがヨーロッパ文明の特徴なのだと述べています。 
 
そして、経済成長をやめなければ人類の存続が危うくなることがはっきりしているのに、果てしない経済成長を求める資本主義から脱却できないのは、それが「宗教のかたちをした神経症」だからであり、「資本主義は貧困とか搾取ということよりも精神病理で人間を不幸にする」し、逆に言えば「精神病のない資本主義はありえない」のだというたいへん重要な指摘もしています。 
 
当然、日本人の心性は「罪の経済」という精神を受け入れていませんし、そもそも神道と仏教の国である日本には本来そうした精神に付き合う必要はありませんから、日本の伝統的な宗教性に立ち返ることで、資本主義でない経済、かつての社会主義とも異なる別の脱資本主義の経済が考えられるのではないでしょうか。 
 
自分の星座から数えて「経済観念」を意味する2番目のおとめ座で満月が起きていく今期のしし座もまた、どうしたら「宗教のかたちをした神経症」を克服していけるかということが大きなテーマとなっていくでしょう。 
 
 
参考:関曠野『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』(NTT出版) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「心の「は」と「へ」の切り替え」。

乙女座のイラスト
ウクライナをめぐるニュースを連日見聞きしていて、「命の価値」という言葉がふと頭をよぎることが多くなってきました。考えてみれば、戦後に経済大国となったこの国でも、高い自殺率や低い出生率をはじめ、それらの現実を無視するかのような政治家の発言などを鑑みると、いつのまにか自分たち自身でも命をつないでいく、そのやり方が分からなくなってしまっているのかも知れません。 
 
生活に留意して健康の増進を図ることを「養生」と言いますが、無病であろうとして、また、何事もなく平穏無事であろうとして、自分の生活を養生しようとしても、結果的にみずからの溌溂とした人間らしさが委縮してしまうのであれば、それはやはり不養生することと同じであり、人として生きる場所を狭くするものであり、生きる元気を奪うものでしょう。 
 
その点について、例えば「整体」という言葉をつくった指導者で野口整体の創始者である野口晴哉は、「養生」というエッセイの中で、その心得について次のように述べています。 
 
養生とは無事を保つことではない。養生とは無理を無理なく用いることだ。無理のない養生は不養生の一つだ。/護ることも大切だが、鍛えることはもっと大切だ。鍛えるということの出発点が心にある。行為そのものに鍛えるということがあるのではない。」 
 
運動や筋トレをして、栄養の行き届いた食事をとり、労働と休暇のバランスをきちんと保つ努力をしたとしても、その根本に「無理を無理なく用いる」ことで自身を「鍛える」の心がなければ、それは養生ではないと言うのです。具体的にはどういうことなのでしょうか。さらに続きを見てみましょう。 
 
断食して丈夫になる人あり。餓死する人あり。食いたくても食はぬ人には断食は健康法になり、食いたいのに食へぬ人は餓死する。生と死の境「は」と「へ」のみ。養生の第一歩は心の「は」と「へ」を切り替えることにある。/「へ」から出発した行為には、鍛えるということは含まれてはおらぬ。「は」から出発した行為は、人間を鍛える。」 
 
その意味で、自分自身の星座であるおとめ座で満月が起きていく今期のおとめ座もまた、食へぬ、自由に使へぬ、遊べぬ、会へぬといった消極的な「へ」を、いかに積極的な「は」へと切り替えていけるかどうかがテーマとなっていきそうです。 
 
 
参考:野口晴哉『偶感集』(全生社) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「浮言を繰り返す」。

天秤座のイラスト
普段から真面目であまり羽目を外すこともないという人ほど、いったん危ない一瞬にいくと、そのままこっち側に戻ってくることなく、あちら側へ行ってしまうことが多い。 
 
これは霊的な修行であれ、酒飲みの話であれ、共通して見受けられる傾向ですが、それはウクライナ情勢のニュースを浴びて興奮状態にあるいまの日本人全体にも通底するものなのではないでしょうか。 
 
そして、こんな時ほど何度も危ない一瞬に差し掛かりつつも、こっち側に戻ってきた稀有な日本人として作家の中島らものことを思い出します。例えばアルコール中毒になって入院し、その余った膨大な時間で薬物中毒になった自らの実体験を本にした『アマニタ・パンセリナ』。 
 
ここには睡眠薬、シャブ、阿片、幻覚サボテン、咳止めシロップ、毒キノコ、有機溶剤、ハシシュ、大麻やLSDなどさまざまなドラッグの話が登場し、それらの大半が「ジャンキー」の側から語られており、当然のことながら何人もの愛すべき人たちが死んでいきます。 
 
「腐っていくテレパシー」というバンドをやっていたカドくんや、オーストラリア人の大男で大酒飲みでラリ中だったマイケル、ショーウィンドウの飾り付けプランナーだったスキニーなど。彼らと中島とを分けたものは一体何だったのだろうか。 
 
おそらく、「自失する」気持ちよさとは別に、「自分に即して物を書く」ことのよろこびを知っていたからではないか。つまり、最初は膨大な学術書からの孫引きで本を構成しようと考えていたものの、「そのうちに「バチが抜けて」、内容がどんどん私的なものになって」いくにつれ、中島は自分自身や仲間たちについて書き出す文章に酔っていったし、夕食を告げる母親の声に連れ戻される子供のように、それで何度もこの世界に連れ戻されたのでしょう。とはいえ、中島は返す刀でこうも言っていました。 
 
「ドラッグについて、酩酊について書くことは、死と生について語ることと同義である。ただ、医者や学者に語る資格がないのと同じように、生き残ってしまった側にも真相は見えていないに違いない。だから、この文章も「浮言」の一種だと思っていただくとちょうどいいかもしれない。」 
 
その意味で、自分の星座から数えて「自失」を意味する12番目のおとめ座で満月が起きていく今期のてんびん座もまた、ハレとケの境界線を失った近代のなかで、生き残ってしまった側のひとりとして、いかに自身もまた浮言を繰り出していけるかがテーマとなっていきそうです。 
 
 
参考:中島らも『アマニタ・パンセリナ』(集英社文庫) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「もう一オクターブ上のわたし」。

蠍座のイラスト
自己と環境との関係には、ごく個人的なものからすべての人間に共通するもの、地理的なものや地球規模のものであったり、それを超えたプラネタリーなものであったりと、本来じつにさまざまなスケール(物事をはかる物差し)がありますが、実際のところ私たちはこれまで「それが人間(そして自分の暮らしや快不快)と何の関係があるのか?」という基準で物事を考えすぎてきたところがあるのではないでしょうか。 
 
こうしたヒューマンスケールに偏った考え方は、3・11でいったん大きく揺らぎはしたものの、昨今の日本社会における気候変動への関心の薄さなどを見ていると、自分に優しく地球や他の生き物へは厳しい態度は3・11以前と比べて根本的に変わっていないと思えてしまう一方、当然ながら危機感をもって捉えている人たちも少なくありません。 
 
例えば、宗教学者の鎌田東二とランドスケープアーティストで研究者でもあるハナムラチカヒロは、2019年に刊行された『ヒューマンスケールを超えて』に収録された二人の対談において次のように述べています。 
 
鎌 デザインも心身変容技法も、突きつめると転換する、メタモルフォーゼするということに尽きる。 
ハ 転換、つまりぼくの言葉で言えば、異化やまなざしを変えていくということですね。 
鎌 その転換をどのように惹き起こせるか。そしてその転換が(…)少なくともより共有された意味のある転換になるためにはどのようであればいいのかということが問われていると思います。  
(中略) 
ハ ぼくはデカルトの「コギト・エルゴ・スム(われ思う、故にわれあり)」という言葉に近代の呪縛がある気がしています。それに対して、フロイトが指摘したのは、「われ思うところに、本当にわれはあるのか」ということだったと思うんです。自分がこうであると理性的に考えている自分というものは、果たして本当に自分なのか。実はその自分が考えている自分の外側に自分はあるんじゃないか。自分ではないと思っていたものが自分であったり。ワシのような鳥と自分は違うはずなのに、自分はワシかもしれないということは、コギト・エルゴ・スムとは真逆のベクトルなのではないかと。ひょっとしたら別のものとのシンクロもその外側の領域にあるだろうし、そのために自分を異化する必要がある。 
鎌 もっと大きな同化…。 
ハ そのもっと大きな同化を手に入れるために…。 
鎌 異化は必要…。 
ハ いろいろな角度から異化する必要があるということではないかと思います。」 
 
自分の星座から数えて「ネットワーク」を意味する11番目のおとめ座で満月が起きていく今期のさそり座もまた、そうした自分をめぐる文脈の異化や転換ということが、ひとつの指針となっていくでしょう。 
 
 
参考:鎌田東二、ハナムラチカヒロ『ヒューマンスケールを超えて』(ぷねうま舎)

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「不安を受け止める」。

射手座のイラスト
緊迫したウクライナ情勢をめぐり、核戦争やチェルノブイリの再来を想像させる材料を日々ニュースで見聞きする現状において、「不安」という言葉を口にしたり、思い浮かべたりすることのない人はおそらくほとんどいないのではないでしょうか。 
 
そこで思い出されるのが、哲学者キルケゴールの『不安の概念』という著作です。彼が論じた「不安」は罪、原罪の問題と不可分という点で、いささか私たちが現実に抱えている不安とはいささか異なっていますが、それでも「不安は自由への可能性である」という指摘は、今この時代の異なる文脈で読み直しても大いに発見があるように思います。 
 
というのも、現代社会において「可能性」という言葉はまるで「希望」と同義語のように扱われていますが、キルケゴールはむしろ真の意味での「可能性」とは「一切のものが等しく可能的である」という事態において感じられる“困難さ”なのだと考えていたからです。 
 
すなわち、「自分には無限の可能性が開かれている」などと言うときの「可能性」とは、何にも、誰にも助けを求めることもできず、私が、私だけが何かを今ここでなす、その瞬間に立ち合っているという事態に他ならず、キルケゴールが「不安は自由の眩暈である」と述べるとき、そこでは何にもないところから何かをなすという自由がまるでパックリと口を開けた深淵のように姿を現し、それを凝視せざるを得ない人間の茫然とした姿を思い描いていた訳です。 
 
そうした「自分にだって〇〇できる」という自己尊厳感情にへばりついてくるものとしての不安という洞察は、例えば、西側の立場にある国の国民である私たちもまた、今回のウクライナ侵攻に何らかの形で加担ないし助長しているかも知れない不安、私たちが自由に飲み食いし買い物をしているその行動が、何らかの形でロシアを追い詰めていたのかも知れないという漠然とした不安について考えてみる上で、確かな足掛かりになってくれます。 
 
もちろん、能天気な私たちに罪があるとか、侵攻を引き起こした間接的な責任があるという訳ではありません。しかし、こうした不安の厄介なところは克服の道がないということであり、キルケゴールいわく「可能性のなかへ沈みこんだ者は、眼がくらみ、物が見えなくなって、そのため物事の目安(…)をつかむことができない」という絶対的な「沈没」へと陥った者は、そのなかで自分のなしうる能力に絶望し、「それでも、否が応でも行為し、生きざるを得ない」自分との不協和を抱えてくしかないのだと。 
 
そこからどう回復の道をたどっていくかは、私たちに課された一つの課題ですが、自分の星座から数えて「召命」を意味する10番目のおとめ座で満月が起きていく今期のいて座は、時代がもたらす精神病理をまずはきちんと受け止めていくことがテーマとなっていくはず。 
 
 
参考:キルケゴール、斎藤信治訳『不安の概念』 (岩波文庫) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「共異体」。

山羊座のイラスト
かつてフランスの社会学者デュルケムは、「人間の情熱というものは、その畏敬する道徳的力の前でしか立ち止まらないものである。この種の権威がいっさい欠落しているならば、支配するものは弱肉強食の法則であって、潜在的にせよ顕在的にせよ、戦争状態は必然的である」(『社会分業論』ちくま学芸文庫)と述べましたが、もしほとんど狂気に駆られているようにしか見えないプーチン政権の執念を止めることのできる「道徳的力」があるとすれば、それはどんなものでしょうか。 
 
ここで「徳」と訳される「アレテー」は本来「善さ、卓越性」の意な訳ですが、複雑な民族伝統や歴史的を背景に持っているロシアにとって、それは同一的な共同性が担保された純粋な集合としての「共同体」を超えたものであり、例えば「共異体」という概念などはそれに近いのではないかと思います。 
 
人類学者の石倉敏明は、キュレーター、美術家、作曲家、建築家などの計五名による共作で、2019年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館において、「Cosmo-Eggs | 宇宙の卵」という展示を企画しました。それは各自の制作内容が重なることもあればズレている点もあるという、一種の即興芸術に近いものでしたが、中でも注目したいのが、展示のタイトルにも入っている「卵」というモチーフです。 
 
そもそも共同制作のきっかけになったのは、美術家の下道基行が沖縄の離島で撮影してきた「津波石」の映像作品だったそうです。この「津波石」とは、かつて海底にあった巨石が、大きな地震や津波の衝撃をつうじて地表にもたらされたもので、過去の大災害のモニュメントになっている訳ですが、それだけでなく、アジサシという渡り鳥が営巣していたり、小さな生物が岩の上を這っていたり、苔や植物がはえている以外にも、特別な埋葬場所とされていたり、聖地として信仰されているかと思えば、石の壁面を住処にしている人がいたり、また周辺でサトウキビを収穫する島民や、遊んでいる子供の姿があったりする。 
 
石倉は「津波石とは異なるものの集合体、あるいは共異体という開かれた全体性のモデルを示すのにうってつけなミクロコスモスだった」のであり、「人新世(人類の活動が、かつての小惑星の衝突や火山の大噴火に匹敵するような地質学的な変化を地球に刻み込んでいることを表わした新造語)という時代に通用するような具体的な共生と共存のイメージを共有」できる「まだ生まれていない世界像」というイメージを込めたかったのだと述べています。 
 
同様に、自分の星座から数えて「信条、哲学」を意味する9番目のおとめ座で満月が起きていく今期のやぎ座もまた、自分の思い描く世界像のイメージをどうしたら誰かに伝えたり、共有したりできるか、試行錯誤してみるといいでしょう。 
 
 
参考:奥野克巳、近藤 祉秋、ナターシャ・ファインド『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学 (シリーズ人間を超える)』(以文社) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「冷たいユーモア」。

水瓶座のイラスト
人非人でもいいじゃないの。私たちはなお、生きてさえいればいいのよ。」 
 
太宰治の晩年に書かれた短編『ヴィヨンの妻』を締めくくる有名な台詞です。1946年の年末から翌1月半ばまでの短期間で書き上げられたこの小説は、戦後の混乱期にそれまでの常識や道徳が根底から覆されていくなかで、敗戦国たる自分たちが何を見失わずにいるべきか、という問いかけに対する太宰なりの回答だったのではないでしょうか。 
 
「人非人」とは、人でありながら、人の道にはずれた行いをする人間のことで、いわば 
“ひとでなし”の異称であり、この小説の語り手である「私(さっちゃん)」の旦那である、自称詩人の「大谷」のこと。 
 
一切お金を稼いでこない大谷は、その上に何日も飲み歩いては家に帰らず、借金を重ねては奥さんと幼い子供に貧乏暮らしをさせているどうしようもないクズ夫なのですが、「私」はそんな旦那に嫌悪感どころか悲壮感さえ出さずに、淡々と対処しては家庭をなんとかしていくのです。例えば、「夫が犯した料理屋での泥棒騒動」の顛末を聞かされたときも、「私」はユーモアさえ見せて次のように語ってみせました。 
 
またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみあげて来まして、私は声を挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果ての大笑い」というのは、こんな気持の事を言っているのかしら、とふと考えました。」 
 
誰しもが青ざめて然るべき場面で、この人は笑うのである。ここには表面上の明るいユーモアの奥に潜んだ、どこか突き放したような冷たさと狂気の入り混じった、女性の強靭な本能とも言うべきものが捉えられているように思います。 
 
おそらく、太宰はそんな女の性を恐れつつも、どこかでどうしようもなく惹かれていたのでしょう。底知れぬやさしさとはげしさを秘めた肉の戦慄。「大谷」が当時の日本そのものだとしたら、「私」は男性中心社会の行使した権力や横暴に対する抵抗の根源にあるものの象徴だったのかも知れません。 
 
同様に、自分の星座から数えて「運命共同体」を意味する8番目のおとめ座で満月が起きていく今期のみずがめ座もまた、まさにどれくらいのユーモアと冷静さをもって「文明の果ての大笑い」を発動させていけるかがテーマになっていきそうです。 
 
 
参考:太宰治『ヴィヨンの妻』 (新潮文庫) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「浸る」。

魚座のイラスト
今回のロシアによるウクライナ侵攻は、その動機付けがどうであれ、結果的に人類のこの世界との関わり方について再考を突きつけるのではないでしょうか。 
 
それは、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックが『危険社会』において、危険(リスク)は外部からくるのではなく、人間が歴史的に獲得した能力から発すると指摘したように、もはや人間同士のいざこざは、テクノロジーの進歩と共に特定の地域や社会間に限定されるレベルをはるかに超え、地球全体を巻き込まざるを得なくなってしまったからです。 
 
私たちはどのようにこの世界と向き合い、関わりあっていくべきか。そのことを考える上で注目したいのが、植物の存在について深い問いかけを行った現代イタリアの哲学者コッチャの『植物の生の哲学』です。 
 
植物について塔とは、世界に在るとはどういうことか理解することにほかならない。植物は、生命が世界と結びうる最も密接な関係、最も基本的な関係を体現する」と語るコッチャは、まず何よりも植物の葉について論じています。 
 
葉から酸素や水蒸気が放出され、それは動物の肺に吸収されていく。植物が供給者で、動物が受容者となる訳ですが、両者は競合しあわず、むしろ共生し合います。 
 
植物の葉が支えているのは、その葉が属する個体の生命だけではない。その植物が表現形として最たるものであるような生息域の生命、さらにはその生物圏全体までもが葉に支えられて生きている。」 
 
こうした葉の働きに象徴される植物の存在形式について、コッチャは「浸る」という独特の言葉遣いで説明してきます。すなわち、「「浸るとはまずもって主体と環境、物体と空間、生命と周辺環境との、相互浸透という<作用>」なのであり、「世界のうちに存在するとは、アイデンティティを共有するのでなく、常に同じ<息吹(プネウマ)>を共有することだ」として、「息吹としての世界」というイメージを掲げていくのです。 
 
植物は何百万年の昔から、この世界で関わりあうさまざまな他者に、それぞれが互いに完全に融け合うことなく、交差し、混合する可能性をもたらしてくれてきた訳ですが、私たち人間がそうした植物の働きに学び、空気の再創造という彼らの最たる仕事を、また別の形でまねることだって不可能ではないはずです。 
 
自分の星座から数えて「他者との関わり方」を意味する7番目のおとめ座で満月が起きていく今期のうお座もまた、自身の活動や関係性にさりげなく植物特有の「浸る」作用を取り入れてみるといいでしょう。 
 
 
参考:コッチャ、嶋崎正樹訳『植物の生の哲学』(勁草書房) 
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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