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    今期のおひつじ座のキーワードは、「恐れなき発言」。 現代フェミニズム思想を代表する思想家ジュディス・バトラーは「恐れなき発言と抵抗」と題されたセミナーにおいて、「恐れなき発言とは何か、あるいはそれはどのように機能するのか、と問うことで、私たちは、今日の抵抗の構造あるいは意味について重要な何かを見出すことができるかも知れません」と問いかけました。

    まずこの「恐れなき発言」とは、「率直に話すこと」「真実を述べること」と翻訳されてきたギリシャ語の「パレーシア」という言葉が前提に置かれています。そして、ここでは語り手は、(主に権力者にとって)都合の悪い真実を語るため、つねに反撃や孤立、拘留、死などのリスクに曝されており、それゆえ「恐れなき発言」の遂行にはヒロイズム的な徳(勇気など)が必要とされてきました。

    しかし、バトラーは政治的勇気にとって恐れなき語りが不可欠だとは考えて“いない”と告白します。というのも、私たちはしばしば恐れを乗り越えていないかもしれないが、「それでも語り、恐れつつ大胆」であったりしますし、また「語る際に、時に私たちは単に自分自身の声では語っておらず、他者たちと共に語っている」からでしょう。

    そして、今のおひつじ座においてもまた、自分が何に対して、いかに、また誰と協力しあって「恐れなき発言」を発しているのか、といった「抵抗の形式」は大きな焦点となっていくでしょう。

    特に「恐れなき発言」をするにあたり、どうしたら自己責任や個人主義を回避し、いかに連帯し、それを蓄積していけるか、という点については、自分自身が反撃や孤立、拘留、死などのリスクに潰されてしまわないためにも、しっかりと自問していきたいところです。


    出典:ジュディス・バトラー、佐藤嘉幸訳「恐れなき発言と抵抗」(『現代思想2019年3月臨時増刊号』)
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    今期のおうし座のキーワードは、「無意識に触れること」。 罪悪感というのは、たとえそれがほんの些細なものであったとしても、抱え続けていくうちに次第に攻撃性や支配欲、怒りといったさらにネガティブな感情へと変化していって、心の根本的なところを蝕んでいくものですが、そうした罪の意識について徹底的に深く探究した作品としてはドストエフスキーの『罪と罰』を取りあげない訳にはいかないでしょう。

    主人公のラスコーリニコフは元大学生の無職で、ボロアパートの屋根裏部屋でギリギリの困窮生活をしているのですが、自尊心が高く知性も教養もあるにも関わらず、強欲な金貸しの老婆を殺してその金を奪うという恐ろしいたくらみに憑りつかれ、実際に殺してしまいます。ところが、その現場を彼女の腹違いの妹に偶然見られてしまい、勢いで彼女まで殺してしまうのです。

    強欲な金貸しを打倒するだけならまだしも、これはさすがに法的にも道徳的にも完全にアウトであると感じたラスコーリニコフは、思い悩み過ぎて支離滅裂なことを口走りながら町を徘徊するようになりますが、たまたま出会った娼婦のソーニャの友情と愛に支えられ、やがてみずからの犯行を自白するに至ります。

    彼は罪を隠し通すこともできたかも知れませんが、一方でソーニャは罪を告白することなしには人生を取り戻すことはできないと分かっていました。

    ここではラスコーリニコフは近代都市と個人主義のはざまにある孤独や虚無の象徴であり、一方の見捨てられた人間ではあるが素朴であたたかなソーニャは大地そのものと言えます。

    そして小説の題名でもある「罪と罰」を、ラスコーリニコフひとりでは決して引き受けることはできませんでしたが、ソーニャの象徴する大地のように、意識を底支えする「無意識」に触れ、それに任せて行動していった結果、彼ははじめて罪悪感を祓い清め、生まれ変わることができたのです。

    今のおうし座の人たちもまた、少なからず彼と同じプロセスを必要としているのではないでしょうか。つまり、どこかで見ないふりをしたり、なかったことにしていた、心の奥底に引っかかっているかすかな罪悪感やその兄弟分である羞恥心と向き合っていかざるを得なくなったり、その中でどうしたら自分で自分を許すことができるかが大切なテーマとなっていくでしょう。


    出典:ドストエフスキー、工藤精一郎訳『罪と罰』(新潮文庫)
  • 双子座のイラスト
    今期のふたご座のキーワードは、「仲間と希望」。 小柄で頭の切れるジョージと知的障害を持つ怪力の大男レニー。二人は農場を渡り歩く季節労働者であり、新しい農場に着いてひと稼ぎすると、町へ出てそれを使い果たしてしまう。そんな生活を繰り返していました。

    家族もなく、家もなく、人生でこれ以上何かを期待することもできない。二人は自分たちを「この世でいちばんさびしい人間」だと思っているのですが、一方で、ジョージはレニーに「おれたちはふつうの宿無しとはちがう」と言い聞かせ続けます。

    レニーはふわふわのものをなでるのが好きで、自分の怪力を自覚していないがゆえに、行く先々で問題を起こしてきたのですが、そんな中ジョージは、いつかは小さな家と土地を買って自給自足し、ウサギをたくさん飼ってレニーになでさせてやるんだ、という夢を持っていました。

    ただしこの『ハツカネズミと人間』という小説では、物語は貧しさに引きずられ、どんどん暗い方へ転がり落ちていき、ジョージがこの夢を自分でも信じられなくなったとき、すべてが雲散霧消してしまいます。なぜなら、ジョージはレニーと共有していた希望があったからこそ、どんな状況であれ前に進むことができたから。夢の話は、レニーを慰めるためであると同時に、自分自身を励ますためでもあったのです。

    そして、今のふたご座の人であれば、誰の心の中にもレニーがいて、“ウサギをたくさん飼う話”をしてもらう必要があるのだということがよく分かるのではないでしょうか。

    あるいは、誰しもが時にジョージとなって、仲間にウサギの話をして元気づけてやることで自分もまた歩みを止めずにいられるのだと。

    人間には仲間が必要だ―そばにいる仲間が

    今期のふたご座は、いま自分がどちらの側に立っているのか、あるいは、どんな希望に生かされているのかを、改めて確認していくことになるかもしれません。


    出典:ジョン・スタインベック、高村博正訳『スタインベック全集4 はつかねずみと人間<小説・戯曲>』(大阪教育図書)
  • 蟹座のイラスト
    今期のかに座のキーワードは、「哀しみのまなざし」。 南アフリカ出身の作家クッツェーの小説『恥辱』は、52歳の芯から腐ったような男を主人公としたタイトルの通りどうしようもないお話です。

    大学の准教授だけれどやる気はゼロで、無教養な人間や田舎者をひたすら軽蔑にしている一方で、性欲をコントロールできずに教え子に手を出すものの反省はゼロ。そのため、その一件で大学を追われた後も転落の一途をたどっていくという非常に重たいストーリーなのですが、どうしたことか読み出すと止まらないのです。

    おそらくそれは重くて禍々しい展開を、ひたすら俯瞰的な文体で描いているからでしょう。例えば、主人公が教え子と会話している次のくだり。

    「ふたりの関係を心配しているのか?」
    「そうかも」彼女は言う。
    「なら心配いらない。気をつけるよ。行きすぎないようにしよう」

    行きすぎる。この手の話で、〝行く〟だの〝行きすぎる〟だの、なんのことだ? 彼女の行きすぎと、こちらの行きすぎは、果たしておなじなのか?

    小説としてはまだ序盤の段階にも関わらず、まるで語り手はすでに主人公を見放しているかのように本音を漏らしています。こうした箇所がその後も随所に出てくるのです。ただ、それは単に主人公を見下しているというよりは、哀しみのまなざしであり、単純な善悪や白黒はっきりじゃないグレーな人間を見つめるそれなのだということも分かってきます。

    そして、まさに今のかに座に求められているのも、自身のことをこうしたまなざしをもって見つめていくだけの距離感でしょう。

    今期のかに座もまた、「自分を甘やかした考えや行動」や「楽な選択」に走るのではなく、自分を通して人間という事象の裏の裏までを見通すだけの奥行きをあなたの人生に持ち込んでいきたいところ。


    出典:J・M・クッツェー、鴻巣友季子訳『恥辱』(ハヤカワepi文庫)
  • 獅子座のイラスト
    今期のしし座のキーワードは、「我は我として」。 激動の昭和に数多くの歴史小説を書いた作家・中山義秀の遺作となったのは『芭蕉庵桃青』という、風狂の俳人・松尾芭蕉を描いた歴史小説でした。

    その冒頭にて、賑やかな日本橋界隈に住み俳句の宗匠(マスター)となっていた芭蕉が、当時は辺鄙な場所であった深川の粗末な小屋に移り住み、それまでの俳句とはちがった独自の作風を確立し始めた頃に詠まれた「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」という句について、次のように指摘しています。

    芭蕉としては三十七歳を期に、一切を放下して世捨人の境涯に入り、あらたに自分の句境をきりひらこうとする、意気込みだったことと思われる。/彼はその頃からして、体内になにやらうごめく力を感じていた。小我をはなれ眼前の現象を離脱して、永遠の時のうちに不断の生命をみいだそうとする、かつて自覚したことのない活力である。/その活力が「烏(カラス)のとまりたるや」という、字あまりの中十句に、余情となってうち籠められている。

    こう書いた中山もまた、早咲きの同級生を横目に、中学校の教師生活や校長とのトラブル、妻の闘病と死、貧困といった生活上の困難を経て、37,8歳頃にようやく自身の文学の道を確立したのでした。

    中山にとっての文学の道とは、時代や状況に流されることのない、独立自尊の気風であり、芭蕉を描いた筆致にも、自然と自身のたどってきた道への思いが重ねられていたように思います。

    中山というひとりの作家にとって、芭蕉はヒーローでもなければ天才でもありませんでした。「おのれの才能はともあれ、孤独に耐えられることだけが、自分の取柄だということ」の覚悟と信念をもって一生を歩んでいった“もうひとりの自分”だったのではないでしょうか。

    そして、こうした過大評価するのでも、過小評価に陥るのでもなく、ありのままに自分自身を捉えていくためのまなざしこそ、今のしし座に必要なものでもあるはずです。

    誰に媚びるでもなく、時代に流されるのでもない。どんなに素朴でささやかなものであれ、そんな自身の歩むべき道を見出していきたいところです。


    出典:中山義秀『芭蕉庵桃青』(講談社文芸文庫)
  • 乙女座のイラスト
    今期のおとめ座のキーワードは、「火遊び」。 バリ島でかつて重要な社会的行事であった「闘鶏」について、アメリカの人類学者ギアーツが分析した論文のタイトルには「ディープ・プレイ」という言葉が使われました。

    これはもともとイギリスの思想家ベンサムが18世紀末に著した『道徳および立法の諸原理序説』のなかで「功利主義者としてみた場合、賭け金があまりに高くてそれに関わるのは非合理であるような遊び」を指すために用いた言葉なのですが、ギアーツはそこに人々が“深く”巻き込まれてしまう象徴的なゲームとして積極的な意味合いを見出したのです。

    ギアーツによれば、あからさまな衝突を嫌い「おとぼけの達人」であるバリ人にとって、闘鶏とは遠回しに互いの面目を傷つけあうゲームであり、そこではみずからの存在の根拠が賭けられた上で、地位の急激な転倒にともなう感情の複雑で激しい動揺を味わうものの、

    勝負によって尊敬されたり侮辱されたりするのはその場だけの話で、現実の地位が実際に取引されることはなかったそうです。

    言ってみれば、激しい攻撃で鶏たちが血を流す闘鶏は「彼ら自身による彼らの物語」であり、その意味で参加者によって解釈される「深い演劇」でもあったのです。

    そして、まさにこうしたどこかで「深い演劇」を演じていく感覚や、それによって引き起こされる感情の複雑さを通じた「一種の感情教育」こそ、今期のおとめ座のテーマとなっていくはず。

    これは例えば、恋人とのデートや応援しているサッカーチームの試合観戦など、日常生活にセレモニーを設置し、そこに織り込まれている解釈のうちに、自分を深く挿入していくことで、単なる事実の寄せ集め以上の“物語”を編んでいくということでもあります。

    あくまで想像上の次元で行われる「火遊び」に、自分がどれだけはまってきたのか、また、それによってどれだけ自身の物語は豊かになってきたのか。この機会に今一度振り返ってみるといいでしょう。


    出典:C・ギアーツ「ディープ・プレイ―バリの闘鶏に関する覚え書き」(吉田禎吾、中牧弘允、 柳川啓一、板橋作美訳『文化の解釈学Ⅱ』所収)