12星座全体の運勢

「二元論的枠組みからの脱却」 

天文学には春の始まりであり、占星術的に一年の始まりである特別な節目の「春分」をいよいよ直前に控えた3月18日に、おとめ座27度(数えで28度)で満月を迎えていきます。 

前回3月3日のうお座新月は、冥王星(パワーへの飽くなき欲求)と火星(アクション)が重なる日でもあり、現在の緊迫した世界情勢がどちらへ傾いていくのかを占う上でも非常に大切な節目でしたが、18日の満月はそんな冥王星を緩和させる形で配置されており、「二元論の否定」ということがテーマとなってきます。 

すなわち、善か悪か、光か闇か、神か悪魔かという二元性の世界にどっぷり没入して、「〇〇〇〇が悪い」「こっちが良くて、あっちはダメ」「制裁、消去」と単純に決めつけていくのではなく、そうした二者択一的/二元論的な枠組みそのものから脱却するべく、否定できない真実をえぐり出していくのです。 

もちろんそれは「言うは易く行うは難し」ではありますが、ちょうど春分をはさんだ七日間を春の「お彼岸」といい、中日である春分が煩悩に満ちたこの世界(此岸)を超えた極楽浄土(彼岸)に最も近づける日だとされてきたように、混迷にみちた現在のこの世において、見失ってはいけないポイントを自分なりに見出し、感じ入っていくには今回の満月前後がもってこいのタイミングなのだとも言えるでしょう。  

その際、春の陽気をぞんぶんに取り入れて、できるだけ世の中や自分自身に対して冷笑的にならないよう努めることが大切であるように思います。世間一般からすれば些細なこと、つまらないことでもいい。自分にとって、これだけは忘れないでおこうと思える何かを見つけ出していきたいところ。 
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水瓶座(みずがめ座)

今期のみずがめ座のキーワードは、「冷たいユーモア」。

水瓶座のイラスト
人非人でもいいじゃないの。私たちはなお、生きてさえいればいいのよ。」 
 
太宰治の晩年に書かれた短編『ヴィヨンの妻』を締めくくる有名な台詞です。1946年の年末から翌1月半ばまでの短期間で書き上げられたこの小説は、戦後の混乱期にそれまでの常識や道徳が根底から覆されていくなかで、敗戦国たる自分たちが何を見失わずにいるべきか、という問いかけに対する太宰なりの回答だったのではないでしょうか。 
 
「人非人」とは、人でありながら、人の道にはずれた行いをする人間のことで、いわば 
“ひとでなし”の異称であり、この小説の語り手である「私(さっちゃん)」の旦那である、自称詩人の「大谷」のこと。 
 
一切お金を稼いでこない大谷は、その上に何日も飲み歩いては家に帰らず、借金を重ねては奥さんと幼い子供に貧乏暮らしをさせているどうしようもないクズ夫なのですが、「私」はそんな旦那に嫌悪感どころか悲壮感さえ出さずに、淡々と対処しては家庭をなんとかしていくのです。例えば、「夫が犯した料理屋での泥棒騒動」の顛末を聞かされたときも、「私」はユーモアさえ見せて次のように語ってみせました。 
 
またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみあげて来まして、私は声を挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果ての大笑い」というのは、こんな気持の事を言っているのかしら、とふと考えました。」 
 
誰しもが青ざめて然るべき場面で、この人は笑うのである。ここには表面上の明るいユーモアの奥に潜んだ、どこか突き放したような冷たさと狂気の入り混じった、女性の強靭な本能とも言うべきものが捉えられているように思います。 
 
おそらく、太宰はそんな女の性を恐れつつも、どこかでどうしようもなく惹かれていたのでしょう。底知れぬやさしさとはげしさを秘めた肉の戦慄。「大谷」が当時の日本そのものだとしたら、「私」は男性中心社会の行使した権力や横暴に対する抵抗の根源にあるものの象徴だったのかも知れません。 
 
同様に、自分の星座から数えて「運命共同体」を意味する8番目のおとめ座で満月が起きていく今期のみずがめ座もまた、まさにどれくらいのユーモアと冷静さをもって「文明の果ての大笑い」を発動させていけるかがテーマになっていきそうです。 
 
 
参考:太宰治『ヴィヨンの妻』 (新潮文庫) 
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<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ