【乙女座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<7/11~7/24> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「徹底的な平和指向でいこう」
7月22日に二十四節気の「大暑」を迎えると、梅雨も明けて強烈な夏の陽ざしが照りつける日々が続くようになり、予定では23日に東京オリンピックも開催されることになっています。そんな中、7月24日にはみずがめ座1度(数えで2度)で満月を迎えていきます。
そして今回の満月のテーマは、「想定外の事態への備え」。「立秋」までの18日間の調整期間である夏の土用の入り(7月19日)の直後でもある今回の満月では、自分が何の準備もできていない出来事(想定外の事態)に直面したとしても、ある程度それに耐えられるような内的な安定感であったり、基礎体力をきちんと養っていくことができるかどうかが問われていくことになりそうです。
それは精神的な面であれば、自分の感情が悪い意味で大きく振り回されているな、居心地が悪いなと感じたら、SNSであれ特定の対人関係であれ、それなりの距離を取ったり、すぐに立ち去ること。
たとえ言っていることが正しかったとしても、怒りをもって訴えるみたいな流れになったら、そこからスッと離れること。それこそ、平和の祭典であるオリンピックの理念を誰よりも体現する“平和の使者”になったつもりで、徹底的に平和指向を心がけていくことを、この時期は何より大切にしていきたいところです。
また、身体的にもこの時期は無理は禁物です。夏の土用の食べ物である、ウナギやあんころ餅、しじみ、ニラなどを食べて滋養をつけるのはもちろん望ましいのですが、それ以上に守るべきことは「睡眠時間の確保」です。脳はついつい夜更かしして、刺激や発散を求めがちですが、それは危機に陥った際に使うことのできるライフゲージを削ってしまう行為であり、「睡眠不足」こそは自分を不安定な状態に追い込んでしまう最大の敵なのだということを肝に銘じておきましょう。
そして今回の満月のテーマは、「想定外の事態への備え」。「立秋」までの18日間の調整期間である夏の土用の入り(7月19日)の直後でもある今回の満月では、自分が何の準備もできていない出来事(想定外の事態)に直面したとしても、ある程度それに耐えられるような内的な安定感であったり、基礎体力をきちんと養っていくことができるかどうかが問われていくことになりそうです。
それは精神的な面であれば、自分の感情が悪い意味で大きく振り回されているな、居心地が悪いなと感じたら、SNSであれ特定の対人関係であれ、それなりの距離を取ったり、すぐに立ち去ること。
たとえ言っていることが正しかったとしても、怒りをもって訴えるみたいな流れになったら、そこからスッと離れること。それこそ、平和の祭典であるオリンピックの理念を誰よりも体現する“平和の使者”になったつもりで、徹底的に平和指向を心がけていくことを、この時期は何より大切にしていきたいところです。
また、身体的にもこの時期は無理は禁物です。夏の土用の食べ物である、ウナギやあんころ餅、しじみ、ニラなどを食べて滋養をつけるのはもちろん望ましいのですが、それ以上に守るべきことは「睡眠時間の確保」です。脳はついつい夜更かしして、刺激や発散を求めがちですが、それは危機に陥った際に使うことのできるライフゲージを削ってしまう行為であり、「睡眠不足」こそは自分を不安定な状態に追い込んでしまう最大の敵なのだということを肝に銘じておきましょう。
乙女座(おとめ座)
今期のおとめ座のキーワードは、「より以上を引き出す」。
今回の東京オリンピック開催をめぐる体操競技の内村航平選手の「選手が何を言おうが世界は変わらない」という発言は、ネットを中心に大きな反響を呼びました。
オリンピックの政治的な利用を認めた無責任な発言だとするものもあれば、現状のスポーツ興行の在り方の限界を訴えた痛切な叫びだとするものもありましたが、いずれにせよ国家的行事に際してこうした発言が日本を代表する選手の口から出てこざるを得ない状況そのものが、日本の国家としての先進性の衰退を象徴しているように感じました。
そもそもスポーツ(身体遊戯)とは何なのでしょうか。あるいは、内村選手が述べたように、私たちが「スポーツを見て感動する」のは一体なぜなのでしょうか。
例えば、生涯をかけて「いのちとは何か」を問い続けた哲学者アンリ・ベルクソンは1912 年に行われた「魂と体」という講演の中で、「われわれの一人ひとりは一つの身体である」と認めつつも、「私」とは「空間においても時間においても身体を超えるように見える」ものであると述べています。
「身体である」ところの「私」が「身体を超えるように見える」とは、一体どういうことなのでしょうか。ベルクソンは、それに答えるように、みずから次のように語っています。
「身体は時間においては現在の瞬間に閉じ込められ、空間においては占める場所に限定され、そして自動機械として行動し外的な影響に機械的に反応するわけだが、その身体のそばで、空間において身体よりずっと遠くへひろがり、時間を横断して持続する何か、もはや自動的でも予測されているのでもなく、予測不可能で自由な運動を身体に対して要求し命じる何ものかを、我々は捉えている。あらゆる面で身体をはみ出し、新たに自分自身を創造することによって行為を創造するこの何かとは、「自我」であり、「魂」であり、精神である。精神とは、その力が含むより以上(plus que)をそれ自身から引き出し、その力が受け取るより以上(plus que)を返し、それが持つ以上(plus que)を与える。」
そう、スポーツ(身体遊戯)とは、まばたきする間に消えてしまうような、生命における特別な現れ、あるいは人生の特別な瞬間のイメージを私たちに与えてくれるがゆえに感動的なのであり、それは私たちひとりひとりに「自分は単なる自動機械ではない」ということを思い出させてくれるものであったはずです。
今期のおとめ座もまた、「より以上」を引き出すものとして身体やその遊戯ということの可能性を、少しでも実感していくことが一つのテーマとなっていくでしょう。
参考:アンリ・ベルクソン、竹内信夫訳『精神のエネルギー (新訳ベルクソン全集)』(白水社)
オリンピックの政治的な利用を認めた無責任な発言だとするものもあれば、現状のスポーツ興行の在り方の限界を訴えた痛切な叫びだとするものもありましたが、いずれにせよ国家的行事に際してこうした発言が日本を代表する選手の口から出てこざるを得ない状況そのものが、日本の国家としての先進性の衰退を象徴しているように感じました。
そもそもスポーツ(身体遊戯)とは何なのでしょうか。あるいは、内村選手が述べたように、私たちが「スポーツを見て感動する」のは一体なぜなのでしょうか。
例えば、生涯をかけて「いのちとは何か」を問い続けた哲学者アンリ・ベルクソンは1912 年に行われた「魂と体」という講演の中で、「われわれの一人ひとりは一つの身体である」と認めつつも、「私」とは「空間においても時間においても身体を超えるように見える」ものであると述べています。
「身体である」ところの「私」が「身体を超えるように見える」とは、一体どういうことなのでしょうか。ベルクソンは、それに答えるように、みずから次のように語っています。
「身体は時間においては現在の瞬間に閉じ込められ、空間においては占める場所に限定され、そして自動機械として行動し外的な影響に機械的に反応するわけだが、その身体のそばで、空間において身体よりずっと遠くへひろがり、時間を横断して持続する何か、もはや自動的でも予測されているのでもなく、予測不可能で自由な運動を身体に対して要求し命じる何ものかを、我々は捉えている。あらゆる面で身体をはみ出し、新たに自分自身を創造することによって行為を創造するこの何かとは、「自我」であり、「魂」であり、精神である。精神とは、その力が含むより以上(plus que)をそれ自身から引き出し、その力が受け取るより以上(plus que)を返し、それが持つ以上(plus que)を与える。」
そう、スポーツ(身体遊戯)とは、まばたきする間に消えてしまうような、生命における特別な現れ、あるいは人生の特別な瞬間のイメージを私たちに与えてくれるがゆえに感動的なのであり、それは私たちひとりひとりに「自分は単なる自動機械ではない」ということを思い出させてくれるものであったはずです。
今期のおとめ座もまた、「より以上」を引き出すものとして身体やその遊戯ということの可能性を、少しでも実感していくことが一つのテーマとなっていくでしょう。
参考:アンリ・ベルクソン、竹内信夫訳『精神のエネルギー (新訳ベルクソン全集)』(白水社)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ