2022年4月3日から4月16日のSUGARの12星座占い
[目次]
  1. 【SUGARさんの12星座占い】<4/3~4/16>の12星座全体の運勢は?
  2. 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢
    1. 《牡羊座(おひつじ座)》
    2. 《牡牛座(おうし座)》
    3. 《双子座(ふたご座)》
    4. 《蟹座(かに座)》
    5. 《獅子座(しし座)》
    6. 《乙女座(おとめ座)》
    7. 《天秤座(てんびん座)》
    8. 《蠍座(さそり座)》
    9. 《射手座(いて座)》
    10. 《山羊座(やぎ座)》
    11. 《水瓶座(みずがめ座)》
    12. 《魚座(うお座)》

【SUGARさんの12星座占い】<4/3~4/16>の12星座全体の運勢は?

「見通しを立てる」 

春の山笑う季節から徐々に初夏の緑したたる季節へと移り変わりゆく「穀雨(こくう)」を迎えていく直前の4月17日には、てんびん座26度(数えで27度)で満月を形成していきます。 

そんな今回の満月のサビアンシンボルは、「明るく澄んだ空を高く飛ぶ飛行機」。すなわち、この世の向こう側から、この世この生を見つめ直していくこと。 

とくに、「死と再生」を司る冥王星と「伝統と秩序」を司る土星を巻き込む形で形成される今回の満月では、自分の置かれた状況の整理し、合意的現実や幻想から自らの意志で抜け出ていく準備をしていくだけではなく、その全体像やあらましを俯瞰し、今起きている危機や変化がどのようなものか、あらためて対象化し、見極めていくことが目指されます。 

ちょうど今回の満月が起きる頃合いを、日本の七十二候では「虹始見(にじはじめてみる)」といい、まだ淡く、すぐに消えてしまう春の虹が空に大きくかかっているのを見ることができるようになってきます。 

今期はいわば、そうした虹の視点からこの世を振り返るようにして、今自分が演じている「人生というお芝居を客観視していくこと」がテーマとなっていくでしょう。 

その際、自分はどんなプロットやストーリーを生きていて、起承転結のうちどのフェーズにいるのか、そしてそこで過去の世代の取り組みや努力、他の人たちとの協力にいかに支えられているか。また、重要な共演者は誰で、どのような関係性にあるのか、そして劇において重要な役割をはたす舞台装置は何か、といったことをよくよく確かめていくことで、人間の問題に対する新しいパースペクティブを手に入れていくことができるはず。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「臨生体験」。

牡羊座のイラスト
この世の向こう側から、この世この生を見つめ直すこと。哲学者の古東哲明は『他界からのまなざし 臨生の思想』において、それを死の間際に至る臨死体験と対比させ、いわば「死にゆく者のまなざし」を借りて、生の間際に臨む「臨生」する精神、「臨生体験」と名付けました。 
 
古東は芸術のみならず宗教や哲学もまた、存在の凄さ(神秘・奇跡)を喚起し覚醒させるために工夫された臨生のための技法や装置なのだと述べた上で、次のように書いています。 
 
もともとぼくたちには、存在に感応する能力がある。ハイデガー風にそれを「存在理解」の能作だといえば、芸術作品や宗教行や哲学的な思索は、その存在感応能力の部位をノックするだけ。ふだん潜在するばかりで休眠状態の能作を、ザッと攪乱し刺激し共震させ、もってひとりでに溢れ出るよう誘引する、そんな文化装置だと考えている。つまり、ふだん当たり前のように生きてしまって忘れている、日常のこの世界や人生を、あらためて驚きのなかで見つめ直すための工夫やしかけ。だから、世界と改めて出会い直し、日常という奇跡を再確認する文化装置。」 
 
そもそも、何かが「在る」ということは、「非在でかまわなかったし、いずれ非在化するにも関わらず、存在している」ということに他なりませんが、それについて古東は次のようにも言い換えています。 
 
非在の闇を背景にしてみれば、むしろ非在であることのほうがオリジナル(=論理的に無理がない)。存在には必然的な根拠も理由も起源も目的もないのだから。だからむしろ理論上は、<在る>ことのほうが土台、不思議。無くてもともとだし、無いのが理屈のうえでは<自然>である。だがしかし、理屈でどれほどそうだとしても、現に事実として、在るのが不思議な<存在>が、刻一刻の今ここに実っている」 
 
非在とは、分かりやすく言えば、この世に生まれていない状況であり、死者や死後の世界に一致した状態ですが、つまり、古東のいう「臨生」とは、そうしたごく自然な状態としての「死をとりこんで生きる実存姿勢」ということなのだと言えます。 
 
その意味で、4月17日におひつじ座から数えて「自分の弱さを保管するために必要なもの」を意味する7番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、そうした臨生体験を通して、自分の死を先取りして、生をまっとうするためには何が足りないのか、どんなことを為していかなければならないのか、改めて見通してみるといいでしょう。 
 
 
参考:古東哲明『他界からのまなざし 臨生の思想』(講談社現代メチエ) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「夜目を取り戻す」。

牡牛座のイラスト
「見通しを立てる」などというとき、私たちはどうしても「遠く」を意識しがちですが、“灯台下暗し”とも言うように、むしろ必要なのはそうした「近く」の暗闇に慣れ、そこで何が起きているかを見通すための視力なのではないでしょうか。 
 
そしてそれと同じことを、倫理学の文脈で言及しているのが哲学者の山内志朗であり、山内は『わからないまま考える』に収録された「夜と闇の中の倫理学」において、まず「闇と光ということを二元論的に対立するもの」だという考え方に自分も含めた多く人たちが囚われてきたのは、「西洋的な理性の光を無邪気に信じていたため」であり、その裏で闇を排除してしまうことにこそ近代的なものの見方の死角があると同時に限界を露呈しているのだと喝破した上で、そうした「西洋的な理性の光」とは別の光として仏像に差しているような「後光」を上げています。 
 
そして、それは照明や窓からの採光に頼らずとも、「仏像の内側から光を放っているような感じがする」ものであり、「そもそも人間は一人一人、如来を内臓しているはずだから、後光を放っているはず」だが、そうした人間の後光を日常的に見る力を失ってしまったのが現代という時代なのだと。 
 
いや、人間は様々な鎧を着ていて、その光を隠しているのだろう。人間はお互いに攻撃し合う。だから服装や肩書きや資格や建物やらで攻撃から自分を防御する。無防備な裸体は傷つきやすさ(vulnerability)のままの姿を現す。それはお互いへの傷つきやすさへの心配りが成立する場面であり、家族的なもの、親密さが成立する場面であるのだ。光とは、蛍光灯の無機質な光の放つ平板で無味乾燥な光ばかりでなく、滲み出てくるようなものもあるのではないかと思うのだ。」 
 
近代合理主義への批判は、ともすると抽象的で日常的な現実から離れてしまいがちですが、谷崎潤一郎が『陰影礼賛』において不浄のもととされる「厠(かわや)」こそ日本の建築において一番風流に出来ている場所なのではないかと指摘したように、山内もまた、分かりやすい価値や意味、実用性などを照らし出す「西洋的な光」からは隠れてしまう「悪や弱さ」が滲み出てくる瞬間を、毎日の暮らしにおいて捉える視力を取り戻すことでこそ、かえって「後光」のような人間の演じるお芝居を奥深いものにしてくれる新たなパースペクティブが開けていくのだと述べてみせた訳です。 
 
その意味で、4月17日におうし座から数えて「日常的習慣」を意味する6番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、みずからの他愛ない日常に転がっている悪や弱さ、そして時おり差し込んでくる後光をまなざすことを意識してみるといいでしょう。 
 
 
参考:山内志朗『わからないまま考える』(文芸春秋) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「新しい合理化」。

ふたご座のイラスト
コロナにしろ3.11にしろ、日本人はどこかで自然環境において災いと恵みは表裏一体であるという認識を持っているように感じますが、そこには人間の知というものの本質がどのようなものであるかということと深い関連があります。 
 
例えば、フランクフルト学派の哲学者であり音楽学者でもあったアドルノがホルクハイマーとともに、第2次大戦末期に反ユダヤ主義のドイツを逃れてアメリカに亡命した先で著した『啓蒙の弁証法』では、セイレーンの誘惑に打ち勝った英雄オデュッセウスの神話を、「近代的で合理的な主体の確立」という観点から読み替えていきました。 
 
いわく、「自我が、つまり人間の自己同一的、目的志向的、男性的性格が、創り出されるまでには、人間は恐るべき試練に立ち向かわなければならなかった」と。そして、この「恐るべき試練」こそ、理性に対して「私は克服などされない」と声を上げる"自然”に他ならなかったのです。 
 
ギリシャ神話におけるセイレーンは、鳥の姿で人間の頭、または女性の胸、腕を持っており、 また竪琴や二本笛を奏で、それに合わせ歌を歌うこともありました。人間が御しえない激しい自然の象徴としてのセイレーンの歌とはどんな性質のものだったのでしょうか。 
 
セイレーンが崇拝されている地では彼女たちは神託の女神だったとも言われていますが、 
「歌う」(ラテン語の「カントー」)とは本来また、「呪いをかける、魔法にかける」(「インカントー」)ことを意味していましたから、それは世界の再魔術化であると同時に、合理化への反動ともとれます。ただ、実際にはどの時代にも合理化と反合理化への衝動は共存していて、再魔術化に見える現象が、実際には一種の新しい合理化でもあるということは、十分にありえる訳です。 
 
哲学者の池田晶子は、その点について『人生は愉快だ』のなかで、「そして、なお深い思索が開けてゆくのは、じつはここからなのであって、対立物がそこにおいて同一であるところのそのもの、生が死であり死が生である、生死がそこから出てくるそのもの、それの何であるか」と喝破していましたが、人間と自然との関係性というのも、そうした終わりなきダンスのようなものなのかも知れません。 
 
4月17日にふたご座から数えて「喜びの発露」を意味する5番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、自分の知的興奮の源泉がセイレーン的なるものとの終わりなき闘いのうちにこそあるのだとすれば、今どんな獲物を狙っているのか考えてみるといいでしょう。 
 
 
参考:アドルノ、ホルクハイマー、徳永恂訳『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)/池田晶子『人生は愉快だ』(毎日新聞社) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「宇宙交響」。

蟹座のイラスト
体制に寄り添うばかりの戦争報道にしろ、AIや遺伝子実験の発展にしろ、現代はいのちあるものの“生命らしさ”とは何か、ということが個人でも社会全体でもよく分からなくなっている時代とも言えますが、解剖学者の三木成夫にならって言うなら、“生命らしさ”とは、たえざる自己更新を行っているという一点に集約できるでしょう。 
 
三木は『胎児の世界』において、そうした生命の本質を、およそ三十億年前の海水にうまれた地球上で最初の生命物質に立ち返ることで鮮やかに描き出します。 
 
地球という特殊な「水惑星」において初めて現われた、それは運命的な出来事と思われる。この原始の生命球は、したがって「母なる地球」から、あたかも餅がちぎれるようにして生まれた、いわば「地球の子ども」ということができる。この極微の「生きた惑星」は、だから引力だけで繋がる天体の惑星とはおのずから異なる。それは、「界面」という名の胎盤をとおして母胎すなわち原始の海と生命的に繋がる、まさに「星の胎児」と呼ばれるにふさわしいものとなるであろう。」 
 
ここからさらに三木は、生命らしさを特徴づける自己更新を、生命リズムを代表する食と性、吸収と排泄という対をなす波が、太陽系のもろもろの波に乗って無理なく流れ、一つの大きなハーモニーを醸し出すところまで、ヴィジョンを展開していくのです。 
 
この生きた小さな星たちは、こうして「母なる地球」と手を携えて太陽系の軌道に組み入まれ、「兄弟の月」そして「叔父・叔母の惑星たち」と厳密な周期の下に交流をおこなう一方、「祖母の太陽」を介して、さらに広大な銀河系の一員として、そこに交錯する幾重もの螺旋軌道に乗っかることとなる。そしてこの銀河系もまた、もうひとつ大きな星雲の渦にとり込まれる……。こうして際限なくひろがっていく。その星雲の果てに、無辺の虚空のなかを宇宙球の最後の渦がゆるやかにまわりつづけるのだという。」 
 
三木はこうした生命リズムと宇宙リズムとのハーモニーを「宇宙交響」とも名付けているのですが、4月17日にかに座から数えて「心的基盤」を意味する4番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、ふだん自分が乗っている生の波が、宇宙リズムのどれかしらとどれだけきちんと交流できているか、今一度確認してみるといいでしょう。 
 
 
参考:三木成夫『胎児の世界』(中公新書) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「ちょっと待てよ」。

獅子座のイラスト
ふだんは無宗教ながら、時おり聖書を開いてみると、そこには人間が嘘を重ね、みずからの責任を他人になすりつけていく過程が描かれています。 
 
例えば、創世記の「蛇の誘惑」の箇所にしても、最も知恵者であった蛇がしたのは、誘惑ではなく、あくまで「善悪の知識の樹の実を食べると必ず死んでしまう」と神様に禁止されたと言ったエバに対して、自分の見解(園の中央に生える善悪の知識の樹の実を食べても死にはしない、善悪を知るようになることを神様はご存じのはずだ)を述べただけであって、エバは自分の自由意志によって言葉を付け足していたのです。 
 
また、エバと一緒になって知識の実を食べ恐ろしくなり隠れていたアダムもまた、神様に「どこにいるのか」と尋ねられたとき、「ここにいます」とだけ答えればいいものを、エバのせいにし、ひいては神様のせいにして責任回避してしまう。このように、人間の元祖であるはずのアダムとエバからして悪が備わっているということを、聖書は執拗なまでに描き出すのです。 
 
そうすると、2500年あまりたっても、人間の本質は何も変わっていないということになる訳ですが、幸いなことに、その間人間は何もしていなかった訳ではなく、上記のような「内在的な悪」をいかに克服することができるかという処方箋を数多くの人が残しています。なかでも、今回取り上げたいのは、ソ連による共産主義体制下において、宗教書や思想書に対する厳しい検閲が行われていたチェコスロバキアで1958年に刊行された『人間への途上にある福音』という本です。この中で、著者である神学者のフロマートカは、上記のような悪の構造とその克服の鍵について、次のように述べています。 
 
悪の深さは、私たちが個人的な嘘と不正、欺瞞と詐欺、内面的および外面的な汚さ、不誠実と卑怯な行為の現場を押さえられたときに完全にわかる。悪は常に完全に具体的な個人の輪郭をとるのだ。「罪」という言葉は、個人を名指ししない何か一般的な気分の表現では決してない。「罪」という言葉は、私たちが義務や使命に逆らったときにあなたと私を指し示す。他者を助ける機会を与えられながら無視するなら罪を犯したことになる。嘘をついたとき、相手のためではなく自分のために利己的に人間関係を利用したとき、心の中または外で夫婦、家族、友人の義務を守らなかったなら罪を犯したことになる。」 
 
私たちは毎日自分に無数の嘘をつきながら生きていますが、それでも「他者を助ける機会を与えられながら無視するなら、罪を犯したことになる」というリアリティを持つことは、仕事でも家庭でも、ちょっとした人間関係でも、ふいに「ちょっと待てよ」という、一瞬のすきま風のような声をきっかけに感じることがあるはずです。 
 
4月17日にしし座から数えて「自己内対話」を意味する3番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、そうしたふと聞こえてくる声(召命)を無視するのか、それをきっかけに隣人を発見していくのか、選んでいくことになるでしょう。 
 
 
参考:フロマートカ、平野清美訳、佐藤優監訳『人間への途上にある福音』(新教出版社) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「根をもつこと」。

乙女座のイラスト
グローバル資本の台頭や長期にわたるデフレの影響で、日本でも国外への移住を真剣に検討する人が増えているように感じますが、こうした風潮は地縁や血縁がすっかり解体され、移住を繰り返さざるを得ない現代人を根なし草に陥らせる傾向をますます後押ししていくことが予想されます。 
 
こうした根をうしなうことに関連して、思想家のシモーヌ・ヴェイユは人間の魂のもっとも切実な欲求は「根をもつこと」であると同時に、それは最も定義が難しい欲求でもあるのだと述べていました。 
 
人間は、過去のある種の富や未来へのある種の予感を生き生きといだいて存続する集団に、自然なかたちで参与することで、根をもつ。自然なかたちでの参与とは、場所、出生、職業、人間関係を介しておのずと実現される参与を意味する。」 
 
人間は複数の根を持つことを欲する。自分が自然なかたちでかかわる複数の環境を介して、道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものを受けとりたいと欲するのである。」 
 
人は「道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものを受け取」ること、すなわち真の意味で癒されていくために根をもとうとするが、それは職業であれ、言語であれ、郷土であれ 
「複数の根をもつ」ことを意味するのだとヴェイユは考えた訳ですが、一方で人がみずからの根をたちきるだけでなく、増殖していくことで何もかもめちゃくちゃにしてしまう(ヴェイユはこれを「根こぎ」と呼んだ)要因が二つあるとも述べていました。 
 
その一つは「金銭」で、いっさいの動機を金儲けの欲望にすりかえ、それが侵食するいたるところで「根こぎ」が起き、その状態が進行するほどに、人はどんな知的文化にも憩いを見いだせなくなると考えました。そして二つめが今日的な意味での「教育」です。すなわち、「技術をつよく思考すると同時に技術の影響にさらされており、功利主義に芯まで染まり、専門化によって極端に細切れにされ、この世界との接触のみならずもうひとつの世界への通路までも失ってしまった」大衆教育に見られる風潮は、子ども周囲の宇宙から引き離し、「魂の無気力状態」に陥らせるか、「人びとを往々にして暴力的な手段にうったえて完全に根こぎにする行動に身を投じる」よう促すかのいずれかである、と。 
 
4月17日におとめ座から数えて「自己価値」を意味する2番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、みずからの尊厳を保っていくためにも、いまの自分が「根の複数性」をどれだけ確立できているか、また金銭や教育を通して侵食する毒にいかに対処できているか、改めて確認してみるといいでしょう。 
 
 
参考:シモーヌ・ヴェイユ、冨原眞弓訳『根をもつこと(上)』(岩波文庫) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「ゾミア的な人たち」。

天秤座のイラスト
春分を過ぎて最初の満月は毎年必ずてんびん座で起こる訳ですが、それはてんびん座の人たちにとって、長い冬をくぐり抜け、生き延びた証しを手にするタイミングであると同時に、半年後のおひつじ座での満月へ向けて次なる仕込みを開始すべく、再び“外部”への志向性が強まって、流動性が高まっていくタイミングであります。 
 
それは喩えるなら、定住化させられていた移動民がふたたび遊牧民となっていくことにも重ねられると思いますが、その際に一つの指針となるのが「ゾミア的人たち」です。 
 
「ゾミア」とは、中国西南部から東南アジア大陸部を経てインド北東部に広がる丘陵地帯にすむ焼畑農耕民のことを指すのですが、アメリカの人類学者ジェームズ・C・スコットは、2009年に刊行された『ゾミア』(邦訳は2013年)において、これまでは単に文明的に遅れた人たちと見られていた彼らが、実は国家の管理から逃れるために自主的に定住農耕を放棄したのだという見方を提示しました。 
 
ゾミアの核心部はミャンマーのシャン州というところで、ここは実際に国家の管理下に入ったことがないのだそうです。その州内州であるワ州にいるワ人というのはいわゆる首狩り族で、周りの民族は危険視して近づかなかったそうですが、今もミャンマーの一部ということにはなっているけれど、ワ州連合軍という武装勢力が実効支配しています。 
 
そして驚くことに、彼らは中国語をしゃべる人たちで、中国からきたならず者だったり商売人だったりが集まってきて、勝手に州を運営している。むろん、中国の国籍からは離脱しています。そこに住んでいる純粋なワ人はもともとワ州で生まれてワ語を話す人たちなのですが、州運営の上層部に食い込んでいる人たちはみんな中国語を話すのだそうです。彼らは基本的に部族社会、厳密には家族よりも大きく部族よりも小さい血縁的な集団を意味する「氏族社会」で、これは近代的な国家とはあまり相性がよくない。こういう人たちが、いわゆる「ゾミア的な人たち」と言える訳です。 
 
これは結局、「文明やその象徴としての都市というのは誰のものか?」という問いかけとも深く関連してくるでしょう。すなわち、今日一般には文明とは国家のものというのが常識ですが、ゾミアの人たちはそうした常識を簡単には受け入れず、国家も文明を必要としなかった。むしろ、搾取を必然的に孕んでしまう国家と適切に距離をとり、対等に渡りあっていくための知恵や戦略を、粘り強く養っては実際にそれを行使してきたのです。 
 
4月17日に自分自身の星座であるてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、この機会に何とどのように距離を取るべきか、改めて思案を巡らせてみるといいでしょう。 
 
 
参考:ジェームズ・C・スコット、佐藤仁監訳『ゾミア脱国家の世界史』(みすず書房) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「空気に浸っているということへの気づき」。

蠍座のイラスト
近代社会では、空気はもっとも当たり前だと思われている現象であり、つねに吸ってはいるものの、それは空っぽで目に見えないことの代名詞であり、単にそこに「何もない」ことの言い換えでしかありませんでした。 
 
人類学者のデイヴィッド・エイブラムは、『感応の呪文』の第七章「空気の忘却と想起」において、かつて古代ギリシャ語において、空気は息や魂を表す同じプシュケーという言葉によって表され、いきいきとした実感が伴っていたが、やがて時代の経過とともに、「完全に抽象的な概念となって物理的身体の内部に―監獄同然に―閉じ込められてしまった」のだと述べ、それは空気から「幻影や目に見えない力」が追い払われ、「霊魂的奥行き」が取り除かれたことに他ならないのだと述べています。 
 
ところが、産業化の全世界的な進行とともに産業汚染物や大量の二酸化炭素の廃棄場となった大気は、時に鼻の粘膜を刺激するほど様変わりし、水の汚染や動植物の急速な絶滅、複合的な生態系の崩壊などを引き起こしていくなかで、人類はようやく空気というものが、あって当たり前のものなどではなかったことを思い出しつつあります。 
 
エイブラムは言います。「空気こそが私たちを最も直接的に包み込んでいる」のであり、言わば「空気は私たちが最も親密にその中にいる要素」なのだと。現代人の文明化された精神は依然として、身体や自然からみずからを切り離そうとする諸力の働きに慣れ親しみ、自分は自律的で、独立した存在であると思い込もうとしていますが、新鮮な空気に浸ることで何らかの力づけを得られるという体感をへるごとに、真にこの世界の一部であることを思い出すことができるのではないでしょうか。 
 
この呼吸する風景はもはや、それを背景として人間の歴史が展開するような活気のないものではなく、自分の活動が参与する効力のある知性の領域なのである。自己言及の王国が崩壊し始めると、そして私たちが空気に目覚め、生成の深みにおいて私たちと関わっている多様な他者に気付き始めると、私たちの周りのすがたかたちが目覚め、生き生きとしてくるようだ……。」 
 
逆に言えば、私たちは自分を取り巻く空気を、空っぽの何もない空間として経験している限りにおいて、自分たちを支えている他の動植物や天地との相互依存関係を否定したり、抑圧したりすることができるだとも言えます。 
 
その意味で、4月17日にさそり座から数えて「霊魂的奥行き」を意味する12番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、まずは新たなサイクルの出来る限り新鮮な空気を吸い込むところから、世界を拡げるための試みを始めてみるといいでしょう。 
 
 
参考:デイヴィッド・エイブラム、結城正美訳『感応の呪文』(論創社、水声社) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「竜巻をおこす」。

射手座のイラスト
現代人は「進化」という概念から連想する、優れた者が生き残り劣った者が滅び去る、生き残りを賭けたサバイバルゲームというイメージが大好きで、ビジネスにおける成功者がなぜか得意そうに進化論風の言葉でビジネスや社会を語っているという光景を目にしたことがない人はほとんどいないのではないでしょうか。 
 
しかし、デザインサイエンティストで世界的発明家で思想家バックミンスター・フラーの共同研究者でもあった梶川泰司は、『宇宙エコロジー』に収録されたエッセイのなかで、 ダーウィンの進化論は、生物は進化するという仮定によってのみ合理的に説明できる事実を多数示すことによって、漸進的変化がおこったプロセスを説明しようとしてきたが、説明モデルとしては片手落ちであり、それは例えば「進化」という訳語にも現われていると述べています。 
 
「進化」とは名詞「evolution」の訳語で「回転して外に出していく」の意ですが、「進化」以外にも「旋回」「放出」「発生」などの意味に分岐してきました。梶川は「進化、発展、展開evolution」の対概念は「退化、収縮、衰退devolution」ではなく(これはビデオの再生巻き戻しのような時間の反転に過ぎず補い合っている訳ではない)、「involution回転して内部に巻いていくこと」であり、「この<巻き込みinvolve>は<展開evolve>と相補的にかつ動的な均衡を形成」し、それはある種のパターンのうちに認められるのだといいます。 
 
統合性(パターン)は、竜巻がバイオスフィアの大気層における海洋と太陽熱との相互作用であるように、そして遺伝子DNAがねじれを描きながら編まれていく縄(ロープ)のように、システマティックに互いに二重以上の螺旋を形成させる知的複合体なのである。<展開evolution>は、人類を除いた分離したシステムの変化として考察できない。<展開evolution>とは、人類の宇宙的な段階と方向であり、宇宙の中のひとつの機能である。」 
 
つまり、こうした機能をダーウィン的な進化の理論、すなわち自然淘汰や適者生存が説明できないのは、竜巻が<放出evolution>と<吸引involution>を非同時的ながら共存させている動的な相補性を、連続的変化の過程のうちにパターンに取り込むことができていないからということなのでしょう。 
 
梶川はさらに、本当に大切なのは人間が進化しているかしていないかなどではなく、まずは「進化」という機能を「不可逆的な形態論の誤謬から、そして「進化」という十九世紀の言語の迷妄から解放」していくことなのだと喝破しています。 
 
その意味で、4月17日にいて座から数えて「予期しない変化の引き金」を意味する11番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、既存の目的論的な「進化論」から抜け出たところで人類の宇宙的な段階と方向に歩調を合わせていきたいところです。 
 
 
参考:バックミンスター・フラー+梶川泰司『宇宙エコロジー』(美術出版社) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「義の心」。

山羊座のイラスト
自分が背負わなければならない任務や命令を重んじ、それを果たそうとする気持ちのことを、私たちは一般的に「責任感」と呼んでいます。バブル崩壊から「失われた30年」を経たいま、右肩上がりの経済成長など、戦後世代と同じような意味での「輝かしい未来」が不可能になってしまったことが誰の目にも明らかになりつつあるなか、多くの日本の若者が日本社会の未来に責任感を抱こうとしても抱けないとしても、それはごく自然な展開であるはずです。 
(日本財団が2019年に各国の18歳1000人に行った調査によれば、「責任ある社会の一員」と考える日本の若者は約30~40%と他国の3分の1から半数近くにとどまったという) 
 
ただそこには、昨今の自己責任論に見られるように、私たちがいつからか「責任」という言葉を、問題が起きたときの「誰のせいなのか」という声に象徴される帰責性の代わりに使うようになってしまっているという事情も大きく関与しているのではないでしょうか。 
 
ここでいう「責任」とは、強い禁止をその裏に含む英語の「duty」ではなく、「responsibility」のことで、これは「応答」を意味する「response」から来ており、つまり、責任とは応答することと深く関係していることになります。ところが、上で言及した「誰のせいなのか」と問われたときに手をあげるような意味での責任は、決して能動的に、心が自然と動いて取られるようなものではなく、むしろその逆のはず。なぜこうなってしまったのでしょうか。 
 
この点について、まさに画期的な議論を展開しているのが、哲学者の國分功一郎と当事者研究で知られる医師の熊谷晋一郎です。彼らは『<責任>の生成』において、「責任」というものがきわめてネガティブな意味合いで使われるようになってしまった要因は、「意志」という概念との強い結びつきにあると述べた上で、次のように指摘しています。 
 
意志の概念を使ってもたらされる責任というのは、じつは堕落した責任なのです。本当はこの人がこの事態に応答するべきである。ところが、応答するべき本人が応答しない。そこで仕方なく、意志の概念を使って、その当人に責任を圧しつける。そうやって押しつけられた責任だけを、僕らは責任と呼んでいるのです。」 
 
では、別の「責任」があるとすれば、それはどんなものか。國分は「義の心」を挙げています。すなわち、人の道として当然行うべきことと知りながらそれを行わない訳にはいかないと心から“感じた”何かに出逢ったとき、人間は「義」というものを知り、それに応えようとするのではないかと。 
 
その意味で、4月17日にやぎ座から数えて「責任と役割」を意味する10番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、自分がどのような責任を担っているのか、改めて実感していくことになるでしょう。 
 
 
参考:國分浩一郎、熊谷晋一郎『<責任>の生成』(新曜社) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「思考の巣」。

水瓶座のイラスト
VTuberが一つの職業カテゴリーとしてすっかり認知され、メタバースに本格的に投資が集中し始めた昨今において、もっともその定義に変更が迫られている概念のひとつに「現実」が挙げられるでしょう。 
 
そして、既存の「現実」観に双極性障害の当事者の立場から、大いに揺さぶりをかけているのが作家の坂口恭平です。彼は『現実脱出論』のなかで、「現実では、個々の空間知覚が抑制され、容易に集団で動くことができる周波数だけが選択されている」ものであり、その意味で、「現実とは、人間という集団が作り出した「生き延びるための建築」」なのですが、逆に言えば、そうした現実を生きづらいものと感じる個人は、「現実」を自分なりに改変することで、少しでも生きやすいものにしてみてはどうかと提案しているのです。 
 
小学生のころ、当時使っていた学習机と椅子を組み合わせ、それが画板の屋根にかけ、布で覆って、机の下に布団を敷き詰めた巣のような空間を作った。僕はそれを「テント」と呼んでいた。それを見た父が「建築家という職業があるよ」と教えてくれて、僕は建築家を志すようになった。」 
 
しかし今考えてみると、僕はどうやら建築家になりたかったわけではないのである。僕が興奮したのは、テントを作ったことであり、何の変哲もないマンションの広告のチラシの中に、自分の理想の空間を立体的に浮かび上がらせることだった。(中略)じゃあ僕に合っている仕事はなんだろう。さんざん探して、唯一、自分の思考と同じだと想えたのが、後に僕が「0円ハウス」と名付ける何軒かの路上生活者の家であった。彼らの家は、僕が作った学習机の巣と同じ思考で作られた建築物だったのだ。」 
 
新しい空間をつくるということは、古い家を壊して、新築の家を建てることではないと僕は思っている。固まり、変容することがないと誰もが了解してしまった現実という空間に揺さぶりをかけて、見えない振動を起こし、バネ入りのビックリ箱のように新しい空間を飛び出させること。それこそが、僕が幼いころにやっていた「空間をつくる」という遊びだ。」 
 
ここで坂口が大切にしているのは、「現実」を変えようと闇雲に行動していく代わりに、創造的改変へと向かうためにいったん立てこもる「思考という巣」をもつことであり、「クルクルっと巻かれて現実の隙間にそっと隠れる」ことのできるような、目に見えない空間を確保していくことなのではないでしょうか。 
 
その意味で、4月17日にやぎ座から数えて「探求」を意味する9番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、現実の背後にそうした目に見えない「思考の巣」をいかに作り出していけるかということを自分なりに追究してみるといいかも知れません。 
 
 
参考:坂口恭平『現実脱出論』(講談社現代新書) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「最初の一手」。

魚座のイラスト
就活であれ広告であれ出会い系アプリであれ、情報インフラが発達した現代社会では何事においても視覚情報が重視されてきましたが、大きな時代の節目を迎えている昨今においては、むしろそうした視覚情報優位な社会においてどんな情報が軽視され、その情報がもたらす価値が見失われているのかということにこそ注目していかねばなりません。 
 
そして、そうした着眼点を得るためのヒントは、しばしば千年以上にわたって読み継がれてきた古典や経典のうちに見出されるのです。例えば、ユダヤ教・聖書研究者の前島誠は『不在の神は<風>の中に』のなかで、ヘブライ語で「手」「力」「傍ら」「記念」などを意味する「ヤード(YD)」という名詞から、「手でする」を原意とする動詞やさらにその派生語が作り出されとして、例えば、詩篇に次のような句を取り上げています。 
 
暮らしを支えるために朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いたとしても、それが何になるのか。主は愛する者に必要な休息をお与えになるのだから。」(詩篇127・2) 
 
原文を参照すると「愛する者」はヘブライ語で「友、親友」を意味する「ヤディド(YDYD)」という言葉で、語形から見ると「手と手」とも読むことができますが、これは「親交をもつ、仲良くする」の意味をもつ「ヤデド(YDD)」という動詞からの派生語なのだそうです。 
 
つまり、複雑な国際関係の中に置かれた古代のイスラエルにおいて、真の絆や親愛の情とは、見た目や服装から生まれるのでも、会話や音から生まれるのでもなく、両手の手(行い)によって初めて成り立っていくものと考えられていたのであり、黙したまま手と手が触れ合い、そこでじかに相手に触れることが、真の理解に繋がっていくとされ、そうした価値観の上で「手」から派生した言葉が神(ヤハウェ)への賛美の詩にも用いられていた訳です。 
 
当然、観念の中でいくらいじり倒しても不毛であるだけであるという現実は、男女の仲において最も顕著となりますが、「知る」という意味の「ヤダァ(YDa)」という言葉は、同時に、アダムとエバのような男女が「枕を交わす」という意味でも用いられていました。そして、こうした触覚の最重要視こそ、現代において最も見失われた価値観と言えるのではないでしょうか。 
 
その意味で、4月17日にうお座から数えて「深い交わり」を意味する8番目のてんびん座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、何によって知るべきかという最初の“一手”に立ち返り、頭で考えたことよりも手で感じたことにこそ己を託してみるといいでしょう。 
 
 
参考:前島誠『不在の神は<風>の中に』(春秋社) 
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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